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2015.11
仙台シアターラボ公演 ハムレットプロジェクト『トライアル2015』
日程 2015年11月22日(日) 会場 せんだい演劇工房10-BOX box-1 出演
本田椋 佐田美菜 宍戸雅紀 野々下孝 伊藤富士子 MIE 岩佐優弥 菊地陽哉 世良未来 熊谷美咲
構成・演出 野々下孝
原作 ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」
音響 藤田翔(キーウィサウンドワークス)野々下孝
照明 神崎祐輝(短距離男道ミサイル技術部)
舞台監督 澤野正樹
舞台美術 松浦良樹(東北大学学友会演劇部)
制作協力 佐々木一美
【劇評】小出侑佳
私、小学校の頃、3年間学校に行けていない時期がありました。その時、つらくて、夜眠れなくて、ふと『死』を考えてしまっていたんです。『死ぬ』ということです。
自分が死んだらどうなるんだろう。 死んだらどんな気持ちなのかな。 何もないってどういう気持ちだろう。 子供がお腹にいるみたいな感じかな。 息をしないんだよね。
空気がない。宇宙だ。死んだら宇宙から生きてる人を見てるのかな。宇宙に行ったらどんな感じなんだろう。宇宙は『無』だ。宇宙。果てがない。宇宙。と恐怖を感じていたんです。でも正直死ぬのなんて怖くて。それから宇宙が怖くなってしまって、宇宙が、星空が見れなくなりました。
でも震災を経験して、「死ぬ!」と思うような経験をしてから、見れるようにはなったんです。震災の日は車で過ごすことになったんですね、それで、駐車場まで行く間に、ふと上を見たんです。周りが真っ暗で、珍しく星がよく見えました。
綺麗だなと思えたんです。暫く見ていました。
そして見終えた後、「ふぅ、」と満足したような息がこぼれたのを覚えています。
でも、満足していたのだけれども、どこか恐怖心があったのを覚えています。
あの、何が言いたいのかというと、今回の劇を観終った後、凄く安心したんです。
当時、星空を眺めていた時のような気持ちになりました。客電が点いてから「ふぅ。」と息がこぼれていました。でも、当時とは違うのは、恐怖心を感じなかったことです。
結構「涙が出た」という感想をツイッターで目にします。でも私は、涙は出ませんでした。
微笑んでいました。安らかな、幸せな気持ちになれたんです。
彼女(美咲さん)が拾っていたものはなんだろうと、凄く考えました。見た目はビー玉だけれど、あれはビー玉ではない気がしていました。
星?命?自分の想い?または誰かの想い?死?(死を拾うって意味わかりませんけど…)
星と考えたのは、パンフレット?「ごあいさつ」に書いてあることを読んでから観たというのもありますが、黒い床の上、照明でキラキラ光るビー玉が星に見えたから…です。
命は、この世に果てしなくある命を、1つ1つ無駄なく拾っていた(果てしない作業に見えた)から、稀に何個か一緒に集めていたのが、集団(女子が一緒に行動する、とか、会社で働く、とか、団体)に見えたのもあります。
自分の想い、または誰かの想いは、オフィーリアは色んな人の想い(ハムレットへの噂)や自分の想い(恋心)がどんどん大きく、どんどん重なっていって狂ってしまった。ビー玉を拾う行為、そしてその後の走るシーンが、気持ちをため込んで、そして抱え込んでしまって狂ったようにみえたからです。
そして 死 です。もしかしたら彼女は、色んな「死」を見てきたのかな。と
彼女とは、美咲さんでもなく、オフィーリアでもなく、そこにいた女性です。
「死んだらお星さまになって、見守ってくれるんだよ」と小さい子に、大人は言います。彼女はそれを信じてきて、でもある時信じきれなくなって「たくさんの星が、ちらばっている!たくさんの死が!散らばっている!」と空を見て叫んだのかなと思い死と考えました。
固定概念に囚われた考え方なのかなと不安になりますね。
文字にするとうまく表現できないです。
抱えて走っていたシーンは、上記のものをたくさんたくさん抱えて、耐え切れなくなって、つらくて走っていたのかな。苦しくて走っていたのかな。誰かに助けを求めるために走っていたのかな。それとも、どうしようもなくて走ったのかな。狂ったのかな…。
抱きとめられたとき(このシーン、タイミングがぴったりでゾクッとしました。)素敵でした。
男「初めまして」
女「初めてじゃありません」
その男性は、自分の知らない、新しい彼女に出会った。
その女性は、彼のもとに帰ってきた。そんなふうに見えました。
男「初めまして(おかえり)」
女「初めてじゃありません(ただいま)」
のような気もしました。
ビー玉が散らばった時、上記の抱えていたものが溢れたような、それとともに彼女の涙もあふれたようにみえました。星がこぼれて宇宙に戻ったような気もしました。
劇評だから批評しないと駄目だよとある人に言われましたが、私は劇に価値をつけることができません…
悪い点なのかは不明ですが、聞いててつらくなってしまったシーンはありました。
最初の泣いてるような、過呼吸のようなシーン、笑いながらビー玉を拾うシーン、息を吸うときの音がつらくなってしまいました…。(精一杯)
あと、私はまだ未熟だからわからないだけなのかもしれないですが、猪木のシーンは謎多きシーンです…。(精一杯)
最後に、本田さんがずっと何かを描いていることが、観ている最中は謎だったのですが、観終えてから凄く考えさせられました。
ある1つの考えなのですが、
描くということは、イメージしたものを表現すること、
演じるということもまた、イメージしたものを表現することに似ているなぁと思いました。
使うものが違うのかな?とも思いました。
私は中学時代美術部だったのですが、絵を描くということは自分のイメージしているポーズや服、背景(場所)、表情を、様々な画材を使って、スケッチブックやキャンバス、画用紙に描くことだなと思っていました。
今思うのは、台本を読んで感じること、もしくはその場で感じた、思ったこと(動きなど)をイメージして、舞台、またはその時にいる空間という真っ新なキャンバスにどう描くかだなぁと思います。もちろん画材は自分であり、衣装、それに音や明かり、舞台装置だと思います。
要するに、どちらも似ているんだと分かりました。
今年観た劇で一番考えさせてもらいました。ありがとうございました。
文字では拙い部分が多いですが、精一杯、私の言葉で書かせていただきました。
私は文章を書くのが凄く苦手で、作文もろくに書けたことがありません。今まで避けて生きてきました。きっとこれも、劇評ではなく(小学生の)感想文かもしれません。私の想いが伝わればと思います。
このような機会を設けてくださりありがとうございました。自分の考えや感じたことを誰かに共有できることが、凄く嬉しいです。
これからも頑張ってください。でもいつか私も、出演したいです
【劇評】佐々木久善
仙台シアターラボの作品は、いつも挑発的だ。例えば、カミュの「カリギュラ」やギリシャ悲劇の「オイディプス」といった古典を原作としながらも、常に「今」を突き付けてくる。
考えてみれば、演劇は共有する芸術である。場所を共有し、時間を共有することでしか、成立しない。私たちは劇場に足を運ぶことでしか演劇に出会うことはできないし、上演されている、その時間に居合わせなければ、やはり演劇に出会うことはできない。空間と時間、この二つが共有されて、初めて演劇に出会うことができるのだ。だから、演劇は、テクノロジーが発達した、この時代においては、まったく時代遅れのメディアであり、無用の長物であると言われかねない。
しかし、現代においても演劇は廃れてはいない。いや、逆に演劇の持つ新鮮さが評価されているほどである。演劇には、それだけの手間をかけても観たいと思わせるものがある。私は、それを人間が根源的に持っている共感への切望であると思っている。空間と時間を共有することでしか成立しない演劇は、決して、舞台から客席に向かって、一方通行に情報が流れるものではなく、舞台と客席の双方で情報が共有され、相互が共感することによって、初めて成立する芸術であると思うのである。
そのような演劇においてさえ、仙台シアターラボの創作活動は、ひときわ特徴的である。最初に書いたように、基になる作品を選定し、そこを出発点として、「今」を突き付ける。言うなれば、基になる作品とは、「今」を測る「物差し」である。だから、基になる作品は、物語でもキャラクターでも相関関係でも、あらゆる要素に分解され、創作の素になるのである。
今回、その素に選ばれたのは、シェイクスピアの「ハムレット」。あまりにも有名な悲劇である。しかも、その登場人物のほとんどが死んでしまうという救いのない物語でもある。
最初、男が現れ、誰もいない空間で、ブツブツと何かを言っている。
「ただいまって言ったのに…」
それ以外は、よく聞き取れない。しかし、それだけで十分に伝わってくるものがある。男は帰ってきたのだ。帰ってきたのに、期待していたような歓待を受けることはなかった。その失望感だけで、ここが男の思い描いた場所ではないことがわかる。
「あとは、沈黙。」というハムレットの最後の台詞を思い出す。
それ以降も作品は、ハムレットとは関係のないような、現代の風俗と人間関係を描いてゆく。ハムレットとは何なのか?
今回の作品で、特徴的なのは、出演者の多彩さである。とりわけ、女性が多い。しかも年齢の幅が広い。
ハムレットは、家族の物語である。家族には、何世代もの年齢の幅がある。人間の肉体には、演技だけでは乗り越えられないリアリティが備わっている。ハムレットを描くときに、この年齢層の広さは必須なのではないかと思った。
トライアルについて、代表の野々下孝は「はじめは、本公演のための試演会として上演されたが、その後、演劇人養成公演としての色合いを濃くしていき、現在に至る。」と記している。私は、トライアルのような演劇人養成公演でなければ、今回のようなハムレットを描くことはできなかったのではないかと思う。
仙台シアターラボは、身体能力の高い演劇人の育成を目標として掲げている一方で、演劇の普及も目標としている。これまでの公演が、少数精鋭の高度な身体を持った演劇人による弦楽四重奏のような作品作りであったのに対して、今回は、木管アンサンブルのように質の異なる楽器を組み合わせる妙味を感じさせる作品作りになっていたと思う。これは決して後退ではなく、新たな方向の模索として評価するべきであると思う。
ラストで、登場人物が手を伸ばす先は、数限りないコンセントの集積体。このコンセントについて、私は他人とつながることを切望する人間の、根源的な姿の象徴であると思った。
演劇は、常に「今」である。何故なら、演劇とは「今」を生きる者同士が出会うことでしか、成立しないからである。そして、それを突き詰めて作品を作り上げるのが、仙台シアターラボという集団である。
ハムレットプロジェクトは、今回の「トライアル2015」に続き、2016年に二つの作品を創作する予定であるという。作品毎に「今」を突き詰め、その場所でしか出会い得ない作品を目指す仙台シアターラボならではの三部作の完結を心待ちにしている。