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2014.06
仙台シアターラボ公演『幸福の果て』
日程 2014年6月20日(金)~ 2014年6月22日(日) 会場 せんだい演劇工房10-BOX box-1 出演
野々下孝 本田椋 飯沼由和 豊島豪
照明 山澤和幸
音響 藤田翔 (キーウィサウンドワークス)
舞台監督・舞台美術 澤野正樹
テクニカルアドバイザー 鈴木拓 (boxes Inc.)
宣伝美術 川村智美
情宣写真 佐々木隆二
制作協力 佐々木一美
【劇評】佐々木久善
会場に入って、最初に気付いたのは、普通ならば入り口と同じ高さにある床面が階段を数段登ったところにあったことである。つまり舞台全面が数十センチの高さに特設されていた。それが実際の舞台で、どの様な仕掛けとなるのか?この時点では、全く予測がつかなかったが、何か尋常ではないものが感じられた。
舞台は、全面に自転車等のスクラップが並び、これまでの仙台シアターラボの作品とは大きく印象を異にしていた。これまでの作品であれば、舞台装置は何もないか、あってもワンポイントで配置されるといったもので、そこに役者が登場することで、はじめて空間が満たされる。いわば「器」のようなものであった。それに対して、今回は、様々な物に溢れ、既に空間が自己主張をしていた。
物語は、このスクラップ置き場を舞台に進む。そこでは絶対権力者の社長・山崎とその甥の淳と何人かの非正規労働者が働いている。淳は詩人ですぐ妄想の世界に入ってしまう。そんな淳を以前勤めていたコンビニの店長・相馬が連れ戻しにくるが、山崎の反対で、淳を連れ出すことができない。しかし一人の非正規労働者がここを去る時に山崎の母親の死体を発見し、それを契機に全てが崩れてしまう。
概略で記せば、物語は単純であるが、実際の作品は、そう単純ではない。先に「空間が自己主張」と書いたが、空間に溢れる「物」と役者とが一体となり、淳の妄想の中で語り始めるのである。
ここまで書いたところで、今回の作品が、仙台シアターラボが創作してきたこれまでの構成演劇とは大きく異なる構造の作品であることに気付く。
以前の作品であれば、作品を構成する様々なエピソードは独立し、バラバラであり、全体の雰囲気を構成するに過ぎなかったが、今回の作品では、有機的につながる一連の物語を構成しているのである。それは、以前の舞台には登場することがなかった様々な物が全面に配置され、自己を主張していることと無縁ではないだろう。
この作品は、アルベール・カミュ作「カリギュラ」をテキストとした「トライアル2014」を経ていることから、最初は「カリギュラ」の上演を目指していたと思われる。それが最終的に「カリギュラ」から離れることになった転回点は「スクラップ」の存在が大きかったのではないかと思う。
「現代において、人間はスクラップのように扱われているのではないか?」そのような問題提起がこの作品からは感じられる。人間をスクラップにし、それを放置する状況を寓話として描こうとしたのではないかと思うのである。
かつて、鈴木忠志はチェーホフ劇にカゴに入った奇妙な人間たちを登場させ、現代的な精神の荒廃を描いたが、それと同じ様な役割を、大量のスクラップとそれを代弁する人物とが任されているように思えてならないのである。
一つの状況をじっくり描こうとしているところが、今回の作品の特徴である。これまでの構成演劇の手法で培ったエピソードの積み重ね方を、一歩進めて、大きな物語に嵌め込んでゆくという作り方を選択している。コンビニのアルバイト、大学の部活動等、これまでも、このようなエピソードは何度も取り上げられてきた。しかし、今回、はじめて物語の枠の中に有機的な構成要素として入れ込んでいるのである。
劇作家に作家性があるように、演出家にも作家性があるのではないかと思っている。それは単純に、演出家が劇作家のようにテキストを書くということではなく、戯曲へのアプローチの仕方に、それぞれの演出家の独自性が現れるのではないか、というものである。
今回、カミュ作「カリギュラ」から出発し、最終的には劇作家のようにテキストを書いているが、目指した方向は、間違いなく演出家の作家性に基づくアプローチであったのではないかと思っている。
1944年にフランスで刊行された戯曲を2014年に日本で上演する意味は何なのか?その問いを常に自己に突き付けることこそが、演出家の作家性なのではないだろうか。
ラストシーンで舞台の奥が開き、光の柱が出現し、淳がそこに吸い込まれるように消えていったとき、舞台を高く作った理由がわかった。淳は階段を降りるように光に吸い込まれてゆくのが美しいのだ。
首尾一貫、演出家の美的感覚に裏打ちされたアプローチであった。
【劇評】akiLa
多種多様な芸術作品が生み出される現代において、古くから存在し「名作」とよばれるものの作品の命、魅力は色あせない。
その色あせぬ理由のひとつとして、人間誰しもが直面するであろう問題を取り上げていること、もっと突っ込んだ言い方をすれば、心理学者ユングが唱えた「集合的無意識」を揺り動かすものがその作品に内在していることが挙げられるのではないか、今回の「幸福の果て」の観劇中、そのような考えが頭をよぎった。おそらく、今回の舞台が壊れた家電、自転車、ガラクタに囲まれた中で役者が動き回るという空間であり、その空間における「カオスの底から何かを汲み取る」というイメージと、自分の心理学についての浅薄な知識とが結びついたからかもしれない。
「集合的無意識は、ユング自身の説明によれば、世代を通じて継承され、形成されてきた心的前提条件の独特な構造を意味する」(『身体論 東洋的心身論と現代』湯浅泰雄 講談社学術文庫188頁 1990)という。つまり、簡単に言ってしまえば、我々個人の心の奥底には、国境や世代を越えて他者と同じような構造が存在する、という説である。
人間が誰しも直面し逃げられない経験(仏教的な考え方をすれば、生老病死など)のよくわからない「カオス」の堆積が個人の心の奥底にあって、しかもそれは周囲の人の心の奥底にも存在しており、時として心の奥底から「表現」される。それが「観客」である他者にも伝達されたとき、その観客の心の奥底にも存在する同じものが揺さぶられ、それが感動を呼び起こし、逃れられない運命はどの時間に生きる者にとっても平等であるから、世代を超えて「名作」と呼ばれる。
他者も共通して感動するようなイメージを表現者─観客間で共有する、そういった構造があると思う。
仙台シアターラボ(以下、シアラボ)では、集合的無意識を刺激させる、つまり魂を奥底から揺り動かす契機を掴むために、イメージの共有を表現者間でもかなり活発に行っているように感じられる。
私がシアラボに出会ったのは2011年の終わりごろだった。ご縁があって稽古に参加したとき、鏡を使った場面を作るため、アイデアを出し合う話し合いに加わった。
(余談だが、シアラボの代表である野々下孝氏は、鏡から連想されるイメージとして光通信などを挙げてらしたが、私は「朝自分の顔を鏡で見ると、むくんでる」など、今思うと恥ずかしいこと言ったなあ、と思い出す)
その話し合いの中でメンバーは、理屈ではない、説明しづらいけれど「いいね!」と魅力的に思ったアイデアを採用しできる限り実現しようとしたり、さらにブラッシュアップする過程に移行する。
理由はない、あるいは自分ではよく分からないけれど何故か感動する、はっとする──
それらのアイデアはきっと魂が動かされる契機か、魂を動かす要因それ自体になりうる。(「集合的無意識」というのもただ単純に「よくわからないもの」に学術的な名前のラベルを貼っただけ、という考えも可能であろう。)
今回の「幸福の果て」においても同様なアイデアを出し合い人類において普遍的なイメージを共有するプロセスは勿論あっただろう。さらにその上で、現在の日本が抱える問題(非正規雇用、高齢化社会、在日外国人etc…)にも触れている。
しかしながらこういった問題を取り上げる上で、シアラボという劇団は自らの社会的立場を慎重に検討しているように思われる。社会問題に対してある程度歩み寄ったところで「判断中止」つまり否定も肯定もしないように感じられる演出は、演劇と社会のデリケートな関係を意識している劇団だから可能であり、さらに未就学児から学生、社会人を対象としたワークショップなど演劇におけるアウトリーチ活動を積極的に行い、社会の様々な階層に対して理解があるシアラボだからこそ実現されるものなのだろうと感じる。
(確かに、そういった深刻な問題に直面している場面において悲しさがあり同情を感じさせる点においては、否定も肯定もしないというのとは違うかもしれないが・・・)
最後に、シアラボの演劇では具象的な場面から抽象的な場面まで、「構成演劇」という枠組みの中で行われる。その中で宗教的なものを感じさせる場面がある。「大きなもの」に操られる人間、運命を背負う人間、を想起させるような場面が好例である。
引き合いに出すのは大げさかもしれないが、思えば、希臘演劇の源流は歌舞による神との対話であった。難解なイメージを他者と共有する演劇というのは、神という大きな存在を他者と同じ価値観を持って信じようとする宗教と、イメージ共有という点で同じようなものに感じるのは私だけか。
そしてシアラボは、身体におけるイメージ、つまり眼には見えない想像を、舞台上のパフォーマンスから稽古場での準備運動にまで重要視している。だが「眼には見えない想像力」を「眼に見える身体」に適用することは、科学的思考に慣らされた現代人にとって、抵抗のあるものに感じるであろう。さらに「幸福の果て」において、最後に淳が光の中へ消えてゆき、彼だけ不在の中カーテンコールに突入するというクライマックスは、人によっては宗教的なもの、抵抗を感じさせるものであったかもしれない。
その印象はひとそれぞれであるからさておき、もしそれがシアラボの意図しないものであったとしたら、そういった抵抗感を薄め、歩みよることがシアラボと観客、ひいては現代の演劇と一般社会の双方にとって必要なものであると思う。
実際に山形や仙台で8年ほど舞台に立ち、役者をした自分にとっても、これは重要な課題であるように思う。
このようにシアラボの演劇は、毎回私にとって他の劇団にはないような深い演劇的思索の契機を示してくれる。
数時間前に「幸福の果て」を観劇し、(6月21日現在)忘れないうちに何か劇評として書こうと思ったのだが「幸福の果て」というよりも、シアラボという劇団を中心に書き連ねてしまった。公演自体だけではなくその背後に存在する現実を意識せざるをえず、個人的にはそこが魅力のひとつであったりする。シアラボファンとしての感想である。