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2013.06
仙台シアターラボ公演『透明な旗』
日程
2013年6月28日(金)〜 2013年6月30日(日) 会場
せんだい演劇工房10-BOX box-1
SUBTERRANEAN
出演
野々下孝 澤野正樹 本田椋 飯沼由和
構成・演出 野々下孝
照明 山澤和幸
音響 中村大地
舞台監督 鈴木拓 (boxes Inc.)
宣伝美術 川村智美
情宣写真 佐々木隆二
制作協力 佐々木一美
【劇評】佐々木久善
仙台シアターラボの芝居には印象的な「色」がある。「歴史という生き物」において、それは血のような「赤」だった。そして、今回、それは「青」だ。
舞台の中央には、水を湛えた水槽が一つ。そして、それを囲む壁面は全て青い幕で覆われている。それはまるで、水族館の巨大水槽の前に小さな水槽が配置された幻想絵画のような構図だ。
水族館の巨大な水槽の前に立つ時、私たちは何を考えるだろう。群れる魚の群舞のような移動に心を奪われることもあれば、底辺にじっとしている貝類のゆっくりとした営みに関心が向くこともあるだろう。あるいは、繰り広げられる世界のあまりの華麗さに、言葉もなく立ち尽くすということもあるかもしれない。
芝居を観るということは、本来、そういうことだと思う。観る者それぞれの関心により、観たいものを観る。そして芝居を創るという行為も、それに対応して何処を観られても興味の尽きない作品を創るというものであるはずだ。しかし多くの芝居が見せたいものだけを見せるものとなり、細部に血の通った作品になっていないという現実がある。そんな芝居は、クローズアップのみが連続する質の悪いドラマのように、その背後に存在する世界の気配が欠落している。それに対して、仙台シアターラボの芝居は、観る者に、あらゆる感覚の開放と芝居の構成要素についての考察を要求する。単純に物語を追っても、「構成演劇」には全体を通しての物語がなく、場面ごとに完結あるいは中断してしまうので、キツネにつままれたように迷子になってしまう。芝居=物語ではなく、物語は全体のコンセプトを実現するための一つの要素に過ぎない。その意味で、観る者は物語を単純に物語として追うだけでは、この芝居に参加できない。物語によって何が伝えられようとしているのか?そこまで求められている。
「行間を読む」という言葉があるが、仙台シアターラボの芝居においても「間(あいだ)を読む」ことが必要なのだ。
「芝居に参加できない」と私は先に書いた。「芝居を観る」ことが、何故「参加」に置き換わるのか。そこに仙台シアターラボの創る「構成演劇」の特徴が現れている。
ここで最初に書いた「色」の話題に戻る。
演劇における装置の役割は決して小さくはない。それに照明という要素も加われば、美術的なものが芝居の印象を大きく左右するのは間違いない。しかしそれが具体的に何を表現するのか?と問われた場合、明確な答えが常に得られるとは限らない。ある人は舞台の世界観を表現すると語り、またある人は舞台という小宇宙の表現であると語るのかもしれない。さらに「色」とは何か?との問いを畳みかければ、十人十色の答えがなされるに違いない。
この「十人十色」という言葉にこそ、仙台シアターラボの「構成演劇」の本質が表われているように思われる。
「芝居を観てきた」と他人に話をすると、「どんな話だったの?」と訊かれる。普通は物語を説明することで、芝居について何かを伝えた気になるのだが、仙台シアターラボの芝居の場合、物語を説明しても、いっこうに伝えた気にならない。逆に、舞台全体が青かったとか、その前に水槽が置かれていたとか、自分はそれを前にして水族館の中にいるような気がしたとか、普通なら伝わらないであろう、あいまいなことを語ることでしか伝わらないものがそこにはある。それは、自分という存在がその芝居と、どのように対峙したのか、という主体性が問われているということに他ならない。
今回の芝居の「青」という色彩と「水」や「冷たさ」とは連想ゲームのようにつながっていったに違いない。短い物語の中で描かれる人間の冷徹さとの関係を思えば、「水」は単なる象徴を超えて、津波のような容赦なく暴力的なものまでを描いていたように思える。観る者によっては、それは正視できないものであったのかもしれない。しかしそれを真っ向から、否定も肯定もせずに、あるがままに描いた誠実さは、仙台シアターラボならではの創作態度であったのではないかと思う。
目をつぶる。舞台一面の青と水を湛えた水槽が思い起こされる。小さな水槽も大きな水槽も所詮、水槽に過ぎない。生物はそこで生まれ、そこで生き、そこで死んでゆく。そんな大きな物語を感じさせる舞台だった。
【劇評】伊藤 み弥
旗とはそもそも何かの目印として空中に掲げられるもの。国旗をはじめ、集団のシンボル、拠りどころとして使われることも多い。だが、それが透明だったらどうだろう。人は拠るべきものを見失って心細くなるだろうか。あるいは、何かに拠ることすら忘れてしまうだろうか。「透明な旗」と聞いたときに、思い出した詩がある。
ある朝 僕は 空の 中に、黒い 旗が はためくを 見た。はたはた それは はためいて ゐたが、音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
手繰り 下ろさうと 僕は したが、 綱も なければ それも 叶はず、旗は はたはた はためく ばかり、空の 奥処に 舞ひ入る 如く。 (中原中也「曇天」より)
透明な旗と黒い旗ではまったく異なるだろうが、見える/見えないなどお構いなしに旗は虚空に翻り、理解不能のメッセージをアピールしつづけている。(これはちょっとした恐怖だ)かすかな不安の風の中、例の旗を翻しながらシアターラボの一行は旅を始める。今回はどんな旅になるのだろう。客電がゆっくりと落ちてゆき、私は暗闇に身をゆだねる。闇に光が差す。と、舞台中央にある水槽が浮かび出た。中には水が入っている。硬質で無機質な舞台空間の中で、水はさほどの量でもないのに、挑戦的かつ異様な存在感を漂わせていた。なぜか目を離せないこの魔力的な力は何だろうか、と勝手に妄想が膨らみだす。やがて薄暗がりの中、音が聞こえ始めた。汽笛のような、獣の声のような、しかし耳慣れない音だ。そう言えば、古来、神は闇のなか音を連れて訪れる(音連れる)とされたという話を聞いたことがあったような、と思った頃、舞台奥から一人の男が現れた。(それが神かどうかはわからない)男(野々下孝)は長い長い管を持ち口元に当てていた。汽笛と思ったのは管に響く呼吸音だった。彼は遠くから長い長い管を水槽に差し入れ、やおら息を吹き込む。ぼこぼこぼこと音を立てて気泡が湧き、水が沸き立つ。そして男は印を切るような素早い仕草と呼吸で虚空を払った。その儀式的な印象に「まるで地鎮祭だな」と思ってプログラムを見ると「儀式プロローグ」とあったので、妙に納得したオープニングであった。その後は、「故郷喪失者」「生活喪失者」「宗教喪失者」「家族喪失者」に分類された22にも及ぶ断片のシーンが次々と展開する。コミカルにシリアスに具体的に抽象的に自分のことのように他人事のように、とさまざまな質感を伴いながら、一目見たら忘れがたい強烈な人物群が現れては消えてゆく。泡のように。いつも思うが、シアターラボとは人間という現われをプレパラートに載せて顕微鏡で観察する、文字通りのラボラトリーなのだ。最後に辿り着いたのはどこだったか、もとい、どこから来たのかも思い出せない寄る辺なき根無し草としてのワタクシタチの姿が観察されたことだろう。だって旗は透明なのだ、目指すものも帰るべきものも見失ってわれわれは右往左往するかあきらめて蹲るか、旅の終わりにしては全くの不首尾だ。ふと思い起こせば、この不首尾な旅の終わりはすでに予告されていたのかもしれない。作品冒頭に現れたイザナギはたった一人で天沼矛を海に差し入れ、国生みを図っていた。イザナミなしに。当然、泡はおのころ島に成ることもなく泡として消えていったではないか。国生みに始まりブラウン管を母親代わりに育つ幼子へとつながるこの作品は、シアターラボ流母親不在の神話だと私は見た。
【劇評】ペンネーム まか
今回初めて劇評書かせて頂きました。
仙台、東京公演と見させていただいたのですが、東京公演のほうは広さと青の幕などの美術セットが本当に水の中にいる不思議な感覚がしました。なぜか安心して眠くなりそうな感じでした。
東京公演のほうが緑の照明や暗闇の中、まったく人の気配を感じさせなかったのでこちらのほうが私好みでした。
仙台のほうは客席と舞台に境目を感じられました。ミストを使っていたため、霧の濃い暗闇に突如現れた湖という感じがしました。
演劇のほうは前回のトライアルより、シーンの区切りがはっきりしているところが多かったため、わかりやすくて楽しむことができました。全く無駄のない構成です。次のシーンに移るときの役者のみなさまのギャップがとてもよかったです。秋田の友人、新潟の英語教師、大分の父親は大笑いさせて頂きました。演技については素晴らしくて何も言うことがありません。
違和感があった点といえば、育児のシーンなんですが風船と音のせいか「出産」の印象が強く感じられました。育児としてやるなら赤ちゃんから成長する表現のほうが合っていたのではないかと思います。
あと、大分の父親は私から見ると祖父って印象のほうが強かったです。
今回の公演男性4人でこれほどの演劇が出来るとは思いませんでした。次回は女性の役者の方を入れたら更に面白いものが出来ると思います。次回も楽しみにしております。
【劇評】ペンネーム 綾と
この演劇を見終わったとき、私は生まからこれまで感じたことのない感覚を覚えました・・・。たとえるなら長い夢から醒めたような感覚です・・・。自分が今見ていたものがなんだったのか、それが分からないでいたのと同時に、私は私達が住むこの国、日本の全てを見たような気にもなっていました。
この演劇のなかには必ず自分の知っている人がいるはずです。それは友人かもしれないし、恋人かもしれない。あるいは家族、学校の先生、同僚、上司・・。必ず見ていて誰かを思い出します。そして思い出すと、自分が見ているものがまるでその人と過ごした思い出のように感じられるのです。それこそがこの演劇の本質なんだと思います。この演劇のなかで見るものはきっとすべて現実のどこかでおこっている、もしくはおこりえることです。
そしてその全ての出来事がいかにも現代の日本人らしいことなのです。
ですが『現代の日本人』らしいということ、それが私にはわかりません。それは劇中に出てくる重要なキーワード『故郷』というものにも通ずるものだと思います。
この演劇が浮かび上がらせる一つの疑問。
私達にとっての『故郷』とは何か?
私達はこの国に住み、かつての先人達が残していってくれたたくさんの偉業による恵み。そして愚行へのよる代償を背負って生かされている。それにもかかわらず、私達のなかには国としての意識、思い、といえるものが薄れていっている・・。
日本人とはどこから来て、どこへ向かっていくのか。
過去と比べれば異常ともいえる急激な国際化が進むこの世界で、日本人はどんな立ち位置でいるのか。
侍がいた日本、平和憲法を掲げる日本、和の文化のある日本、アニメ大国の日本、世界指折りの経済国家の日本、アイドルが流行している日本・・・。
色々な日本のなかで色々な日本人が暮らし生きていく。私達が掲げる日の丸のその旗に、果たして私達はなにを思うのだろうか?
私達のどれくらいの人々がその旗をみて同じ故郷としての日本というものを感じれるのか。
このごろ私は実は私達が見ているあの旗は、もしかしたら『透明な旗』なのかもしれないと思いはじめている・・。