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2015.06
仙台シアターラボ公演『魂が凍結する夜』
日程 2015.6.12(金)~ 2015.6.14(日) 会場 せんだい演劇工房10-BOX box-1 出演
野々下孝 宍戸雅紀 及川貴明 村岡佳奈
照明 神﨑祐輝(短距離男道ミサイル技術部)
音響 櫻井楓
舞台監督 澤野正樹 飯沼由和
舞台美術 松浦良樹(東北大学学友会演劇部)
宣伝美術 川村智美
情宣写真 佐々木隆二
制作協力 佐々木一美
【劇評】中村大地(屋根裏ハイツ)
『魂が凍結する夜』は、シアターラボの5年間の歩みを再構成する構成演劇だった、とひとつ言ってみたいと思う。例えば樽枝というワークショップを基に作られたと考えられるとある構成シーンやあるいは、バージンロードをゆっくり歩くその姿は、『腐敗』を思い出させるものがあったし、『歴史という生き物』や『透明な旗』をにおわせるような要素も幾つかちりばめられている。それは、その数年間の歩みを共にしたからこそ思えるごく個人的なことなのかもしれないが、これを一つとっかかりに筆を進めてみたいと思う次第である。
シアターラボ本公演は、『透明な旗』以前と『幸福の果て』以降でその性格が大きく異なる。そのことはパンフレットに示される「観劇のしおり」の違いからも見て取れる。まず、『幸福の果て』『魂が凍結する夜』には、『物語』『配役』という項目が見られる。(以下引用は『魂が凍結する夜』より)
■物語 舞台はバージンロード。新郎新婦だけでなく、男女、恋人、夫婦、さらには家族や義理の息子までもが通る道。バージンロードには、今まで歩いてきた道であり、そしてその先に、新婦と未来への道を進むという意味がある。彼らが進む、バージンロードの先にあるものは?バージンロードをモチーフに描く現代劇。
■配役 1人の俳優が様々な役を演じます。あるときは日常を切り取ったように、あるときは抽象的なイメージを表現するように、またあるときは、日本に昔からある「型」の考え方に通じる、身体に抑制を加えた演技をしています。
そして、『透明な旗』までは、『構成演劇とは』『さまざまな演技トーンが存在する舞台』という項目が見られる。(引用は『透明な旗』より)
■構成演劇とは
この公演は「構成演劇」という形式で上演されます。美術に詳しい方なら「コラージュ」といえば、多少理解の手助けになるかもしれません。いわゆる、誰がどうしてどうなったという意味でのストーリーはありません。短い演劇的な断片を重ねて、「記憶のプール」をテーマに一つの印象を物語っていきます。
前のシーンがこうで、次がこうだから・・・と見ていくと、何のことやらわからなくなると思います。撮った場所も時間も違う写真を次々とスライドで眺めていって、最後に「ほんのりした感じ」とか「ふわふわした気持ちになる」という感じ方をするのと似ています。
■様々な演技トーンが存在する舞台
構成要素は以下のものになります。
〈ショートストーリーズ〉 誰か一人が台本を書くのではなく、メンバーが相談して作る日常的なストーリー。
〈ショートシーン〉 メンバーが相談して作る抽象的なシーン。
〈フリーエチュード〉 あるルールのもと、ゲーム感覚で、爆発的なエネルギーを放出するシーン。
〈ルパム〉 メンバーが相談してつくるオリジナルダンス。
〈様式〉 壮大なエネルギーが渦巻く文学作品の世界を、抑制された身体によって表現するシーン。
これらの要素は、1つ1つ異なる演技トーンで成り立っています。様々な演技トーンを浮遊し、異なるテンションを内包する俳優の身体こそが、この舞台の特徴です。
「観劇のしおり」に書かれる言葉が異なるということは、観客への見せ方が根本的に異なるということである。
同じ演技、同じ方法論であっても、提供の仕方が異なり、すなわちそれは、これまで用いていた方法論を、その位相をまったく異なる位置に置いて上演を行うということだ。私は、その異なりを「俳優の扱い」であると考える。観客が見ているのは、俳優そのものあるいは、その身体ではなく、俳優が演じている役である。この違いは些細なようであって全体、大きく違う。大きく違うと言うのは、俳優(の演技が)ということではなく、上演を通底するムードが、大きく異なってくるということである。
演じている役が曲がりなりにも存在するということは、演じている役の帰属する何かが、パフォーマンスそのものとは別個の部分に存在するということであり、『幸福の果て』、『魂が凍結する夜』でいえばそれが「物語」ということになろう。
『透明な旗』までの作品の特色は、シアラボ≒山の手メソッドと呼ばれる、質や量の異なる様々な演技のトーンの構成によって、ダイナミズムを生み出し、言葉による物語とは無関係に、ある種運動的に、上演を熱狂的カタルシスへと導くことにあった。創り手に通底するのは、『才能が溶けていく音』や『故郷喪失者』といったテーマであり、青や赤と言った色をモチーフにした美術が、照明が、音楽が、それぞれの要素が、ある意味ごちゃごちゃとそれぞれがそれぞれの出力を持ってテーマを体現している、というところにひとつの肝があったように思う。そしてその通底するテーマを言葉として与えられた観客は、あたかも美術の展示作品を観るかのように、テーマと舞台上に起こる俳優の身体によって起こされる諸現象を比較しながら、時には本当にパンフレットに目を落としながら、その異なりであったり、あるいは類似点を見つけだしたりしながら観てゆく、という観劇の形式を求められる。観客には、そのテーマ以外にガイドラインが無く、しばしば「作品の抱える主題・メッセージといったところがわからない、伝わらない≒小難しい」(まあ、わからなくたって別にいいじゃないかっていうのが私個人的な習慣ではあるが)といった感想を持たれることも多い形式の作品であっただろう。
一方で、『幸福の果て』におけるシアターラボはパンフレットに初出した『物語』を大事に、シーンを構成する「構成演劇」へと変更を選択し(あるいはそれを余儀なくされ)『物語』という枠組みの中で自らのもつメソッドを試みていた。なので、説明に不向きな「モノマネ」や「フリーエチュード」は鳴りを潜め、反対に、心情・状況説明に適する「ショートシーン」及び「ショートストーリーズ」が多用されていた。
例えば、ショートストーリーズででてくる若い青年の、心象風景を表すために、別のシーンを用いている。その場合、そのシーン同士の関係は等価ではなく、若い青年の心象風景の説明として、後景に次のシーンが存在することになる、そこには基本的に観客の(別のものだと認識するような)想像の余地はない。言いかえれば、そこは想像しなくてもよい、というガイドラインがひかれており、観客はショートストーリーズの若い青年の苦悩や幸福といった心情の葛藤に身を委ねればよいといった格好になる。卑近な言葉で言うならば圧倒的にわかりやすく、見やすい作品になっていたことが、とても印象的だった。
ここまで、転換点となる『透明な旗』と『幸福の果て』について考察を続けてきたが、では、『魂が凍結する夜』はどうであっただろうか?
『魂が凍結する夜』では、『幸福の果て』のある意味ソリッドともいえる演技トーンの制限を解放し、『物語』を描こうとしていたように思う。まあ、だから、簡単にいえば『透明な旗』以前までと、『幸福の果て』で試みたこととの包摂点を探り試みた演劇だと言える。
「モノマネ」や「フリーエチュード」的身体で観客の笑いを誘うシーンも数多く、一見すれば『透明な旗』以前に構成が戻ったといって良い感触を得る。‘いわゆる、誰がどうしてどうなったという意味でのストーリーはありません。’といった文言通り、例えば野々下孝のことを舞台上でほかの登場人物は「孝」と呼んだり、「真一」と呼んだり、「お兄ちゃん」と呼んだりしてまとまりがない。しかし、受け取る印象は『透明な旗』と『魂が凍結する夜』では明らかに異なる。そこにこそ、物語の有無という大きな異なりが見えてくる。
『魂が凍結する夜』で用いられた物語はバージンロード、結婚という誰もが通過する人生の転機を体験した野々下孝、あるいは魂凍結者1の、その後に悲劇的な状況に包まれていく「父」としての物語が大きなベースとなって展開される。父/性の役割を担う野々下孝の役割は、上演を通して変わることが無い。
例えば、終盤のシーン、植物人間と化した直己を嘆く夫婦の会話から、イプセンの「小さなエイヨルフ」への移行。この場合、夫婦という役割は、シーンが移行した後も変わらない。野々下孝が大きく夫という役(割)を演じ、村岡佳奈が大きく妻という役(割)を演じ、「子を失った物語」に従事する。そこには、さまざまな演技トーンの構成・展開によるダイナミズム・ジャンプはなく、ショートストーリーズで描かれた子を失った親の嘆きの説明として後景に、イプセンが参照されている。あるいは、フリーエチュード的な「血」というシーンは、その後の直己が登場するための説明として挿入されている。
比較してみれば、この構成は質や量の異なる様々な演技のトーンの構成によって、ダイナミズムを生み出し、言葉による物語とは無関係に、ある種運動的に、上演を熱狂的カタルシスへと導くことに主眼を置いているのではなく、父と母、あるいは、夫婦という役(割)による物語を首尾よく説明し、その物語的関係性を届けるということにその眼目を置いているということがわかってくるだろう。これは、「わかりづらい」「親しみづらい」としばしば言及されがちだったシアターラボの作風に対するとても生真面目な野々下孝の解答であるのかもしれない。どちらが好きか、どちらが良いかというのは、観客によってさまざまあるだろう。多少の私見を交えるならば、わかりやすい分卑近な印象は否めず、かつてのチェーホフやマクベス、小林秀雄からの引用がもっていったテキストのダイナミズムが鳴りをひそめているということが、やや物足りない気がしてならない。
5年という月日の中で、仙台シアターラボの座組みは大きく変わった。仙台気鋭の俳優集団から、研修生という制度を設け、若手と積極的なクリエーションを試みる集団へと。あるいは、身体的な構成演劇からある意味古典的な言葉の、物語の(構成的)演劇へと。この変化の過程には、想定していないトラブルなども数多くあったことだろう。その変化を如実に作風に反映しつつ前進を続けるその研究的姿勢を、これからも追いかけたいと思う。
【劇評】佐々木久善
演劇や映画を作ることを別の言葉で言い換える場合、オーディオ・ヴィジュアライズという表現が一番、しっくりする。オーディオは音響、ヴィジュアライズは視覚化。つまり、何かを「耳で聴こえ、眼で見える」ようにすること。そんな感じだ。しかし、それは映画においては、そのまま当てはまるが、演劇の場合は、それだけではない。観客がその場にいることが、演劇の特性である以上、聴覚・視覚以外も全ての感覚を利用できるのだ。温度や湿度、空気の流れ…。演劇は人間の持つあらゆる感覚を総動員して表現することが可能なのだ。それでも、その中心には聴覚と視覚がある。演劇を作ることをオーディオ・ヴィジュアライズと言い換えるのがしっくりくる、というのは、私にそういう意識があるからである。
仙台シアターラボの「魂が凍結する夜」を観ながら、私が最初に思ったのは、この作品が視覚化と音響化の実験作だということだった。
舞台の壁と床はウェディングドレスを思わせる布地で埋め尽くされ、「結婚」がこの作品のテーマになっていることが伺い知れる。そして最初のシーンでの新郎・野々下と新婦・村岡の会話は、不条理な効果音に妨害され、コミュニケーションにならない。
ここで一つ、確認しておく必要があるのは、「何」を音響化・視覚化しているのか?ということだ。仙台シアターラボの作品は、台詞を声に出すとかリアルな部屋を再現するといった既成概念としての演劇とは異なり、言うなれば、「魂」とか「凍結」のような抽象的なものを、音響化し、視覚化している。だから、それは説明とか、解説ではなく、観る者に「感じる」ことを求めているのだ。
舞台を埋め尽くす純白の生地とは? ウェディングドレスのマネキンとは? 新郎や新婦にまとわりつく紅い糸とは? それらは全て、舞台から投げ掛けられる挑戦状である。おそらく、それら一つ一つには明確な意図があるに違いない。しかし、その意図を超えた「何か」を「感じる」ことも期待されているのだ。
この作品は、ソフォクレスの「オイディプス王」を基にしている。ところで「オイディプス王」とは、どんな話なのか? それは、怪物スフィンクスによって危機に瀕したテーバイの国を、その知恵で救った放浪の若者・オイディプスは、先王の妃と結婚し、テーバイの王となる。しかし、疫病が流行し、その原因を突き詰めるうちに、オイディプスは、自分が先王と妃との間に産まれた子供であることを知り、絶望の中で、両眼を潰し、再び放浪する、というものだ。
紀元前400年頃に書かれたこの戯曲から、仙台シアターラボの作品は「結婚」という人生の局面を抜き出している。それも悲劇的で非生産的な「結婚」だ。それを補完するために、ハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」とヘンリック・イプセンの「小さなエイヨルフ」が引かれている。
題名の「魂が凍結する夜」とは、明らかに「結婚」を表している。
考えてみれば「結婚」とは不思議な制度だ。本来、他人である二人の男女を一組の「夫婦」へと変換する仕組みだ。その制度への懐疑こそが「魂が凍結する夜」という作品なのだ。
舞台を埋め尽くす純白の生地は、「結婚」という制度の象徴であり、ウェディングドレスのマネキンは、その歴史的な反復を描いている。その空間の中で、動き回る役者は、制度に取り囲まれて右往左往する滑稽な道化である。もしかするとドレスの下で繰り広げられる秘め事なのかもしれない。台詞が効果音に邪魔されることは、コミュニケーションの不可能性を描いているのだろう。
場面は、結婚式から始まって、様々な場面を間に挿みながら、家族の崩壊へと続いてゆく。白一色の舞台に紅い糸がまとわりつく。新婦の首に、新郎の指に、そして、それは、時として純白の壁面に、血管のように浮かび上がる。ラストシーンでは車椅子に乗った黒衣の子供がバージンロードを、ゆっくりと移動してゆく。オイディプスの子供達が悲劇的な最期を遂げることを考えれば、黒衣の子供は「死」そのものなのかもしれない。
思えば、「オイディプス王」が書かれた紀元前400年から「小さなエイヨルフ」の18世紀末、そして21世紀の現在まで、人類は「結婚」を繰り返し、血脈を保ってきた。しかし二千年を超える時を経て、人類の何が変わったのだろうか? そんな問い掛けの聞こえる作品であった。
構成・演出も行っている野々下孝の強靭な肉体に対して、宍戸雅紀と村岡佳奈のぎこちなさの残る身体が、対照となり、全体として、多様性を際立たせていた。
仙台シアターラボ5周年公演『魂が凍結する夜』劇評
小森隆之
構成演劇を観たことがある、もしくは知っているか、いや全く。というわけで、ぜんっぜん「わからなかった」わけであるが、今回のこの『魂が凍結する夜』について。や、そんな、わかんなくてもいいんだよ、そういうわかるわからないみたいな、そういうんじゃないから、という、何度か、いや、何度も、そういった、同じような声、同じような表情で聞いたような台詞が聞こえてくるが、というか僕が勝手に、そういったものを想像するので、所謂卑屈マインドにより、ので、そういった台詞が聞こえた感じがするのである。実際は聞こえてないのである。
で、その構成演劇。構成演劇ったら参照メイエルホリド、参照イヨネスコってことになる?
でもそれ、ちょっと難しい、というか知らないし、ということで、それらには目を瞑り、また目を背け、今作のテーマ「復讐される者たち」に目を向け(実際に目の前にあるからね)、観てきたものを思い出す。
構成演劇とはつまり(再)構成演劇であり、その「再」がどこからのものであるかといえば、役者たちのイマージュ、の身体化、の意識化、で、そのイマージュがどこから発露するかといえば役者自身であり、「再」がどこに掛かっているかといえばその発露に。その再構成が甘いと、構成演劇としてはよろしくないことになろう。
この作品に登場する「野々下孝」「宍戸雅紀」「及川貴明」「村岡佳奈」は「解体」も「構成」も中途半端に、歪に繋がっていた。まさに「そんなこといってないじゃない!」といった関係が、そんな台詞が本当にあったかどうか今となっては定かではないけれど、舞台上にあったのはそういった繋がりだった。そして最後に、さすが石原さとみである。もう、あれは兵器だね、ひとつの「石原さとみ」という兵器になりつつあるね、彼女は。
……結婚、か。石原さとみとなら、してもいいな。石原さとみとでも、後悔したりするのかな